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沿革

沿革

創立60年の歩み SINCE1952

創立者

創立者:額田豊・額田晉

創設期

東邦大学の歴史

大正14年(1926)東京大森に額田豊・額田晉両博士兄弟によって帝国女子医学専門学校が創立された。昭和2年(1927)には薬学科が増設され、昭和5(1930)帝国女子医学薬学専門学校と校名変更、さらに昭和16年(1941)には帝国女子理学専門学校が併設された。戦後、医学専門学校は大森で授業を再開し、帝国女子医学薬学専門学校(薬学科)と理学専門学校は千葉習志野の旧陸軍施設の使用許可を得て、その施設を整備し昭和21年(1946)に習志野西地区(現在大学所在地)に移転し授業を再開した。昭和23年(1948)理学専門学校が習志野東地区(現中高所在地)に移転し、西地区のスペースに余裕ができた。そこで、中等教育からの理数科一貫教育の夢を描いていた創立者兄弟は、とりあえず校舎建設の必要はなく、修学環境もよく受け入れ態勢は十分であるので付属高等学校の設置の申請をし、昭和27年(1952)2月27日に認可がおりた。
初代学校長に就任した額田豊は副校長に理学・農学博士白鳥勝義(戦前の台北帝大教授)を迎え、主事に有坂一世を任用した。校舎は旧兵舎を当て、教員・事務局のスタッフを揃えて、同年(1952)4月15日第1回入学式を挙行した。(志願者38名、合格者27名)
昭和36年(1961)4月には待望の中学校の第1回入学生を迎え入れ、創立者の理念である中・高直結の理数科6カ年一貫教育の一端が漸く実を結ぶことができた。昭和45年(1970)4月からは、従来男子部・女子部制で男女別々に行われてきた授業のかたちを改め、現行の共学制へと変更した。
昭和48年(1973)新校舎が竣工され、9月に西地区より現在地へと移転した。その後、運動場の整備、体育館兼講堂、プール、弓道場と次々に設備が整えられ、中学校校舎の増築、理数教室、部室の新築と教育環境が逐次整備された。

発展期(教育信条・理念)

教育信条・理念

昭和44年(1969)に就任した第6代学校長下村弘毅、平成4年(1992)まで11年余り在任した第8代学校長相川勝衛のもとで、基本的課題・保護者の期待・教職員の意欲を有機的に結合し、次第に評価を高めていった本校は首都圏有数の進学校となった。第9代学校長細野直は、本校の建学の精神が創立者の「自然・生命・人間」という言葉に凝縮されていると力説し、校内のあらゆる教育機会にこの精神を発揚していこうと強調した。

さらに「自分探しの旅」「ノーブレス・オブリッジュ(エリートの義務)」「断片からの脱出」を訴え、宇宙・自然の無形の偉大な力を畏敬し、大自然の一部としてもらいうけた生命を大切にし、心の向上を目指して、学問への強い意志と絶え間のない自己鍛錬と謙虚な自己省察によって、それぞれの人生目標に向かって、あきず・こりず・たゆまず精進するという東邦中高生最大の課題を示した。

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